収入爆上がりにかまけて適応障害になった話

転職/キャリア

ご無沙汰しています。アーツシです。

本日は、転職を機にワーカホリック気味になりまして、適応障害になった時の話をします。

適応障害、休職、転職を経ての私の感想

  • 「僕がやらなくては…」はほぼ間違い。自分の思い込みこそストレスの癌。
  • さっさと病院に行き、休みましょう。薬にも頼ってしまいましょう。
  • メンタルヘルス、休職であなたのキャリアは終わりません。
  • 転職で簡単に建て直しは効きます。
  • 20代とか、若いのであれば一度ぶっ壊れてみるのもまあありっちゃあり。
  • でもパニックって多分癖になるんじゃないのかな、万人に推奨はできない。

日本には、「責任感が強いことは良いこと」という価値観が根付いているように思います。
それ自体が悪いわけではありませんが、ときにその責任感が行き過ぎて、自分自身を追い込んでしまう人が少なくないとも感じています。

私自身はというと、そのような崇高な精神があった記憶はございません。
単に金に酔い金に踊らされた、俗の極地をいくお下劣なものだったと自省しています。

何はともあれ
ストレスによって心のバランスを崩し、健康を損なって休職を経験したことが私にもあります。

当時は「この先、もうキャリアアップはここで終わってしまうんだろうな」との諦めを受け入れた上でのギブアップでした。

でも実際には、転職を通して新しい環境に出会い、当時から1度も年収が下がることもなければ、むしろ前よりも働きやすく、次のステップへと順調に進むことができました。

だからこそ、今つらい思いをしている誰かに伝えれたらと思います。
「一度立ち止まっても、キャリアは終わらないし、むしろ新しい道が開けることもあるよ」と。

私の経験を通して、今の生活やキャリアを失うことへの恐れから、過去の私のように心をすり減らしている方の気持ちが、少しでも軽くなればと願っています。

また今の職場に病んでしまったというケースでも、私は転職という選択肢をおすすめしています。

これは戦略的撤退どころか、それもまた前進を続けるための術であると思います。
環境を変えることは、決して逃げではなく、前に進むための大切な一歩です。


エージェントさんを通じて、様々な案件や業界情報を日々キャッチアップしながら、今のあなたにとってストレスになってしまう要素が排除できる環境を着々と検討、選別をする事もまた、未来に光を照らす処方箋となります。



それでは時系列を追って当時を振り返ります。

超成果主義ベンチャーITコンサルに入社

2021年11月、晴れてエンジニア派遣の螺旋から解脱を果たし、SaaSコンサルティングのイケイケベンチャーに入社しました。

当初の転職の目的としては、脱SESをすることで、案件に関わらずフルリモート勤務を手に入れることでした。

2020年末から、派遣された案件でもフルリモートを許可いただき在宅勤務をしていたものの、この案件が終わるなり、コロナ禍が終焉するなりすれば、出社を再度強いられる可能性がありましたので、それは何としても防ごうという事で始めた転職活動でした。

年収300万円でも不自由なく暮らせていたこともあり、「フルリモートでのんびり働きたい」という想いで転職活動をしていました。
なので、超成果主義のベンチャー企業なんて、当初は選択肢の片隅にもありませんでした。

ところが、登録していた転職サイト経由で人事労務の方からスカウトをいただき、カジュアル面談を受けたところから状況が一変。
あれよあれよという間に、社長との最終面談まで進んでいきました。



仕事内容にも興味はありましたし、手当なしの基本給35万円。
地方の派遣エンジニアのままであれば、30代になるまで待ったとしても、達成されているかは怪しい程の十分な年収増です。
そして完全フルリモート。

最後は「若いうちに一度くらい、がっつり働いてみるのも悪くないか」と自分を納得させ、入社を決意するに至ったのです。

入社後をざっくり

そして入社後、間髪入れずに実践デビューを果たします。

保守案件の中に、お客様のイギリス支社がメインのやり取り先になる海外案件がありました。
それまで導入を担当されていたアメリカ人のメンバーが保守フェーズでは離任されることになり、英語での窓口対応に空席があったのです。

そのポジションにに配属される形で、入社1週間でいきなり実践の場に放たれました。
案件やシステムのキャッチアップは負荷があったものの、「英語対応ができている」という点でまず成果を多少なりとも見せる事ができたため、ラッキーなことに社内外からも即戦力認定をいただきました。
この後学習の場が一気に広がっていきます。

英語によってブランディングができたことで、成長の機会が次々に舞い込むサイクルに突入できたのだと分析しています。

入社から1ヶ月と経たないうちに、進行中のシステム導入プロジェクト2件にもアサインされます。
引き続き保守案件をメインに行いながら、さまざまなお客様の環境に入っていき、実践の中でシステム仕様のキャッチアップを進めました。

前月入社のメンバーが試用期間終了後斬首

そんな慌ただしくも充実感のある日々を2ヶ月送り、年明け2022年1月。
私が入社する1ヶ月前に入社したカズヤさん(仮)、クビになり会社を追い出されたことを知ります。

カズヤさんがおサボりマンだったのか、シンプルな無能だったのか、はたまたカズヤさんの能力自体の問題ではなかったのか。
同じ案件で仕事をしていない私にはわかりません。

ただし、その人事の内情を知らずとも、「圧倒的成果主義」を掲げるこの組織の方針は承知のうえで入社しています。

だからこそ、そこで目にした戦力外通告の光景は、私の中の強迫観念を駆り立てるには余りあるものでした。

目の前で斬首刑の執行を目の当たりにしたそのわずか1ヶ月後に、今度は自分自身が同じ審判を受ける番がやってくるのです。

それまでの2ヶ月も自分なりにはベストを尽くしていたつもりですが、カズヤさんの処刑から1ヶ月間、私は「解雇」という見せ鞭を喰らいながら馬車馬のように働きました。

入社半年で15万の昇給

3ヶ月目の猛スパートも功を奏したのでしょう。
試用期間という関所を、私は無事に生きてくぐり抜けることができました。

ギロチンを華麗に回避した私を待っていたのは、鬼のような昇給でした。
入社時点の月給35万円でも、地方の派遣エンジニアだった私にとっては夢のような待遇でしたが、そこから更に怒涛のジャンプアップ。
なんと15万円アップの月給50万円という契約を提示されたのです。

これは基本的に、偶然と幸運の産物です。

僕と同じ時期に、クビを切られてしまうようなカズヤさんが入社していた事で、私が相対的に優秀に見えた可能性は高いでしょう。

尚且つ、海外案件の対応に既存メンバーが対応の難しさを感じていた所、私がスポっとそこに収まったわけです。
当時はまだシステムの標準機能をキャッチアップしているような段階で、技術的には激ショボ木偶の坊だったと思いますが、お客様側としては、これまでコミュニケーションがそもそも満足に取れていない状態が続いていたことがあって、英語で会話がある程度成立するだけで万々歳だったのでしょう。

私が入社してプロジェクトにアサインされた後、これまで頻発していたクレームがぴたりと鳴りを潜めたらしく、そういった事も評価いただき、目を疑うような昇給をご提示いただいたのです。



更なる昇給に躍起になり仕事が断れなくなる

夢のような昇給に心を奪われた私は、「次の査定でも、必ず巨額の昇給を勝ち取ってみせる」と躍起になっていました。

依頼される仕事や案件の量は、勢いを増すように次々と舞い込んできます。

全部やりきって、また文句なしの昇給を勝ち取るんだ

そんなポジティブな意気込みも確かにありました。若いですね。アツいですね。

しかしその一方で、思い込みの激しい性格が災いし、こんな不安が頭をよぎります。

どれかひとつでも取りこぼしたら、せっかく手に入った“優秀認定”のラベルが剥がれ落ちて、評価の目も一気に厳しくなる。

そうなれば、ここでキャリアの階段が止まってしまう。

私は基本的に、自分の能力に対して懐疑的な人間です。
謙遜ではなく、本心から「ここまでの成功体験は、運と偶然の重なりによって成立している」と考えていました。
だからこそ、そのバイアスを継続させること――つまり、“勘違いを本物に見せ続けること”こそが、この先も評価を積み上げていく唯一の方法だと、どこかで思い込んでいたのです。

そんな歪んだ認知に突き動かされ、私の労働時間は加速度的に伸びていきました。
土日も合間を見つけては作業にあたり、目の前に差し出された仕事すべてに食らいついていく日々。

そして気がつけば――
導入プロジェクト4件、保守案件3件。
合計7社のプロジェクトを同時並行で抱えるという、誰の目にも明らかな「頭のおかしい」状況に、自らを追い込んでしまっていたのです。

賽の河原で適応障害に

2022年初夏——。
私が精神を病むに至った、底なし沼のようなプロジェクトが混沌を極めていきます。

参画後にこの事実を知るのですが、そのプロジェクトは何度も導入に失敗してきた歴史があるようで、本番稼働が延期されること計4回。
積み重なった数多の屍の上に、私が鳴物入りで足を踏み入れることにななったのです。

このプロジェクトでは、日本の財務会計処理に適合しない機能を搭載したパッケージを採用しておきながら、一方でプロジェクトの方針は「フィット・トゥ・スタンダード(Fit to Standard)」。
つまり、追加開発は行わず、標準機能に業務を合わせるという強硬突破が試みられていたのです。

当然のごとく、ユーザー負荷の高いシステム・運用設計となり、現場業務を担うユーザーがそれを素直に受け入れるはずもありません。

誰の目にも明らかに、無理のあるコンセプト、予算、そしてスケジュール。
にもかかわらず、その“無理”を止める最終決断を誰も下そうとはしない。

顧客側の業務部門、IT部門、経営層——そして我々外部パートナーを含めた4つの勢力の間で、
「誰がブレーキを踏むのか」をめぐる、壮絶なチキンレースが始まっていたのです。

その睨み合いの中で、私としても「これはもう無理だ」と、社内外に対して進言することができませんでした。

もし自分が立ち止まった責務を問われる形でプロジェクトが止まれば、ひいてはうちの責任となり…
それは私にかけられた期待、幻想が壊れる瞬間。
このキャリアアップの波も、そこで終わってしまうように思えたのです。

連日、日付が変わるまで作業に従事し、「どうにか好転しないか」ともがき続けました。
しかし、業務をこなせばこなすほど、なぜか次々とタスクが増えていく。
摩訶不思議で奇天烈な現象に、やがて私の脳はついていけなくなっていきました。

意識のある時間は常に動悸が止まらず、ようやく眠れたと思っても、2〜3時間で大量の寝汗を知覚して目覚めてはまた不安に襲われる。
食欲もまったく湧いてこず、いつの間にか食事を抜くのが当たり前になっていました。
絶食ダイエットと水抜きの相乗効果でも狙ったかのように、体重は45kg台を記録するようになっていました。

そんな日々が2ヶ月ほど続いたある日、友人の勧めで心療内科を受診します。

そこで下された診断は適応障害及び睡眠障害。自分の限界を受け入れざるを得なくなりました。
※診断書の記載は違う文字列でしたが思い出せず…写真を見つける事ができた折には、修正して画像も添付します。

「短けぇ夢だったか」と一言。一応、決死の想いで駆け抜けた、1年と1ヶ月。
顎に銃口を押し当て、引き金を引くような心算で、私は休職、そして退職の決断を下したのでした。

休職で回復して次の会社へ

心療内科で「適応障害」と診断されたのが、2022年9月末頃のことでした。
そこから期を同じくして、まるで出来過ぎたかのように、次の職場がすんなりと決まります。

年内いっぱいを回復とリフレッシュにあて、2023年1月から、新しい環境での再スタートを切ることができました。

2021年に脱SESを果たして以降、私は転職エージェントのサービスに登録したまま、過去に面談して「この人なら信頼できる」と感じたエージェントと細く長く繋がり続けていました。
そのおかげもあり、体調に明らかな異変を感じはじめた秋口には、すでに転職活動のアクセルを踏み始めていたのです。




そして、導かれるように決まったのは、前職と同じシステムを扱う企業。
同じくフルリモート、年収はわずかながらもアップ。
それは、まさに私の目の前に垂れてきた“救済の糸”でした。

10月には診断書を会社に提出し、引き継ぎや有給消化を想定して、年末での退職に向けての調整が始まります。

逃げ出しておいて、このような発言は滑稽そのものかも知れません。
しかし1年前まで地方の“底辺エンジニア”だった自分を、いきなり平均年収を超える待遇にまで引き上げてくれた前職には、今でも感謝の気持ちが尽きません。

だからこそ、せめて最後は“誠実に”去りたいと思いました。
すぐに休職せず、後述する投薬治療で症状の改善を実感していたこともあり、私は定時内での稼働を条件に、11月末まで引き継ぎ対応を続ける道を選びました。

※ただし、これはあくまで私個人の判断です。
皆さんは、どうか無理をせず、医師と相談しながら休む選択肢を取ってください。

心療内科での治療を開始してからは、心身の状態が劇的に回復しました。
睡眠薬「デエビゴ」の処方により、ようやく6時間以上まとまった睡眠が取れるようになり、寝汗や食欲不振も劇的に改善。
不安や動悸の発作も徐々に治まり、ようやく“出口”のようなものが見えてきた気がしたのです。

12月は有給を消化しつつ、残りの期間を正式に休職。
傷病手当金を受け取りながら、北海道や韓国を旅し、文字通り「心を解き放つ時間」を過ごしました。

そして年明け。
私は再び、違う環境でキャリアのスタートを切ることになります。

助けを求めない無責任さ

当時の経験談は以上になります。
時間が経った今、振り返ると、あの頃は本当に辛かったことを思い出しますが、それでもあの苦しい時期があったからこそ、今の自分があるのだと感じています。

仕事で病んでしまうのは、決してあなたの欠陥ではありません。
過去の私のように、仕事のストレスに悩んで辛い日々を送っている方々に、少しでも安心してもらえたなら嬉しく思います。
どんなに暗い日々でも、必ず終わりがあり、そこから新しいスタートが切れることを心から信じています。
もしこの記事が、少しでも前向きに次の一歩を踏み出すきっかけになれば、これ以上の喜びはありません。

自分の思い込みこそストレスの癌

まず、私のケースにおいては、無理な働き方が始まったのは、「この仕事を完遂できなければ自分のキャリアが終わる」という勘違いからでした。
無理なものを無理と言わず、潰れるまで助けを求められなかった自分の姿勢には、無責任だったと反省しています。

ポジティブな意味で捉えていただきたいのですが、無理なものは無理です。
そして、それが無理でもあなたは死にませんし、会社も潰れませんし、世界も終わりません。
「絶対にやらなくてはいけない」という思いこそが、自分を最も追い詰める敵だということを、経験を通じて学びました。

素直に助けを求めること、相談すること、その姿勢がいかに重要であるかを、今回お話しした経験を通して実感することができました。

医療に頼る、休む

いまだにメンタルヘルスの問題で病院へ通うことを受け入れがたいと感じる方もいるかもしれませんが、日本にはかなり多くの患者がいることを知っておいてください。
​厚生労働省の「令和5年(2023)患者調査」によれば、精神疾患を有する患者数は以下の通りです
外来患者数:​約576.4万人​

もし、あなたが今、心の不調を感じているのであれば、それは決して特別なことではなく、誰もが通る可能性のある道です。投薬治療を受けることに不安を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は薬を服用しても依存性を感じることはありませんでした。お医者様に相談し、最適な治療を受けることができるので、心配せずに一歩踏み出してみてください。

医療のサポートを受けることで、あなたの心と体は少しずつ回復し、また新たなスタートを切ることができます。無理せず、恥ずかしがらず、そして迷わず休んでください。あなたには、その勇気を持つことが大切だと心から思います。

立て直しは可能なので、挑戦は恐れずに

幸せに過ごせている今だからこそ言えることではありますが、若いうちに行き過ぎた経験を積んだことは、無責任ではありますが貴重な経験だったと感じています。

「中庸の大切さ」は多くの教えで説かれていますが、その中庸を実感するためには、両極を知ることが不可欠だと思います。ですので、新しい環境に踏み込むことに躊躇するくらいなら、あえて一度潰れてみるという荒行も、キャリアにとって柔軟性や解像度を高める貴重な経験となり得ると思います。



ただし、ストレスへの反応には癖がつくこともあると思います。
私は幼少期の経験から、ストレスに反応してパニックに陥ることが何度もありました。
休職してから新しい環境に移った後も、最初の1年は過剰にストレスに反応してしまう自分を感じることがありました。

そのため、ストレスに反応しすぎないように自分を追い込まないことは最も大切です。
あなたも、まずは自分を守ることを最優先にして、無理なく過ごしてください。

おしまい

本日も長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
また近々お会いしましょう。

アーツシより ココロを込めて

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